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Posted by ミリタリーブログ at

2008年02月29日

南ベトナム空軍パッチ

South Vietnamese Air Force Patch


 唐突に何で?とまぁ~思う人もいるでしょうね。現用品とかイラクとか民間軍事会社とかそんな物ばっかり書いていましたから。一部にカンボジアの記事があったから驚かないと言う人もいるかもしれない。それでも何でいきなり空軍?そんな疑問はありそうですが。理由はいつもの通り、私がデザインを気に入っているから・・・。

 南ベトナム軍のワッペンも最近は出回らなくなってきたね。人気の高い陸軍や特殊部隊物はともかく、空軍物も最近は程度の良い物は姿を消したね。日本ではすっかりベトナム戦争自体の物が下火になってきて、多くの人が現用装備へ興味が移っている現場では仕方のないところでしょうかね。
 それはさておき、私はこのパッチのデザインが好きなんですよ。なんかアジア的で飛竜が描かれている。翼はベトナム国旗のデザインになっている。バランス的にも良いセンスが感じられますね。特に泥臭いデザインが多い南ベトナム軍のワッペン類の中にあっては好きな物のうちの一つですね。


 いわゆる、南ベトナム空軍正規品のパッチ シルク織りという手法で製作されている。基本的に、このワッペンは南ベトナム空軍を表す。つまり空軍属の兵士は等しくつけられるようだ。細かい資料が残っていないので確証がないのだが、作業服用のワッペンであり、制服に取り付けられることはない、また基本的に右側のポケットに取り付けられる様だ。


 なんに使うのだろうか?緑色に染められた皮のプレートに金色の空軍章。ネームプレートかな?誰か知りませんか。


 刺繍のバージョンもある。ベトナムでよく見られるフランス刺繍の方式で作られたパッチ。外側のトリム部分だけをミシンで作っている辺りも当時、よく見られる手法だね。


 サブデュード・バージョン 地上勤務の空軍基地警護兵なんかが使用していたのでしょうね。意外に空軍基地は散発的なゲリラ攻撃を受けていたようです。基地の外周警備が通常の警護兵も、夜間に攻撃をかけるため基地に近づくゲリラを撃退する為、迫撃砲射程のぎりぎりの辺りで野営させられていたりしたようですよ。

 南ベトナム空軍てっ・・・聞くと多くの人はイメージが沸かないでしょ??なんかすげーアジアの後進国の空軍とかショボイ感じじゃんとかこんなイメージでしょう。フランス植民地軍現地空軍として編成されたのが1951年6月。しかし名称だけで実際の部隊運用はフランスがディエンビエン・フーで負けて仏領インドシナを手放す頃までなかった。
 1950年代中ごろの南ベトナム空軍発足時は大戦中の中古プロペラ戦闘機が60機、兵員1300人程度から始まった。確かにショボイね。
 1950年代後半 ゴ・ディンジェム大統領率いる南ベトナムが共産主義の脅威にさらされると、アメリカは特に軍事面でこの国を支援し始めた。南ベトナム空軍は大きな支援を受けて発展し、僅か数年後の1960年にはダグラス社のAD6 スカイレーダーが配備され、ヘリコプター部隊も持つ様に成っていた。1965年頃にはアメリカの支援も大規模な物となり、地上軍の直接介入を含め、軍事面でパイロットの育成まで請け負い始めた。
 1970年までには南ベトナム空軍は9個戦術航空団を持ち、4万人を超える組織となった。この頃までにはノースロップ社のF5A/B/CとE ジェット戦闘機やセスナ社A37 ジェット攻撃機などの配備も完了していた。
1972年では総数500機のヘリコプターを持つ18個中隊を新設、当時、世界でも最大級のヘリコプター航空団を持つに至った。
終戦の1975年時には作戦機総数(ヘリコプターを含む)2000機を超え、63000名の人員、55個航空中隊を保有した。装備的にもジェット戦闘機、攻撃機は言うに及ばず、EC-47電子作戦機、AC-119ガンシップまで所有していた。
 余談ながらこのガンシップAC-119はサイゴン陥落時に任務でタン・ソン・ニャットを飛び立ちSA-7個人携帯ミサイルで撃墜されている。記録上、ベトナム戦争初めてSA-7が使用されたのがこの日であった。
 おそらく南ベトナム空軍の総合的な空軍の作戦力を考えるに同時期の航空自衛隊より装備的に勝っていたのだろうと思う。僅か15年ほどでこれだけの巨大空軍を作り出すには、当然アメリカの援助無しには考えられない。
南ベトナムの国内経済は大きな外貨を稼ぐ産業もなく、常に貿易上の赤字を計上していた。国内生産品の大半を占める農耕地でさえ、戦争で荒廃していたのである。
改めてアメリカの凄さを感じる歴史的事実だと思う。

Text By TAC  


Posted by USARV-TAG at 23:25Comments(0)パッチ&インシグニア

2008年02月29日

CMAC ~カンボジア~

CMAC - Cambodian Maine Action Center -
~カンボジア地雷処理活動センター~ 




 カンボジア、10年前にもなるだろうか最後の大規模クーデターが起こった後、平穏を取り戻した国だ。現在、壮年の方たちを中心に観光地として知られる。勿論、最大の呼び物はアンコール遺跡群。
 この国のイメージをたずねるとき、その答えはその人の年代、性別、背景によって様々だ。観光、遺跡、貧困、難民、地雷、紛争、虐殺、麻薬、売春どれもこの国を代表しないが、この国を語る時その全てを内包している。ベトナム戦争の末期、日本人戦場カメラマン沢田教一、一の瀬泰三が殺害されたのもこの国だ。
 ベトナム戦争の戦火が隣国カンボジアに飛び火し、大規模な内戦に発展した。共産ゲリラのポルポト派が中国の後押しで勢力を拡大すると、戦争の拡大を恐れたアメリカは直接的な常備陸上戦力を投入するような介入こそ公にすることはなかったが、CIA主導で本格的な支援活動を秘密裏に行っていた。
 当時のカンボジア政府軍は弱体化しており、国体を維持する意義すら理解できなかった。ベトナムのサイゴンが陥落と時期を同じくしてカンボジアの首都プノンペンが陥落した。ポルポト派の首都掌握で内戦は終止符を打たれたように見えたが、そのまま歴史的に軋轢の絶えなかった隣国ベトナムへ侵攻を開始したのである。同時に国内での権力を磐石な物とするため将来的に政治力を問うような危険性をはらむ多くの知識人、特権階級、旧政府役員、教師、医師は言うに及ばず少しの外国語を理解する者まで危険分子として収容し、その殆どを抹殺した。
 また権力の基盤を揺るがされることを恐れたポルポトは同じ組織内の政治局員にまで疑いの目を向け始め、その中のヘンサムリンがカンボジアから逃れベトナムへ亡命する。ヘンサムリンを擁立し、その後見役となったベトナム軍はカンボジア領内の主要都市を制圧し、ヘンサムリン政権を樹立した。ポルポト派が勢力を弱体さると旧政府系軍閥が勢いを増し、カンボジアで閉ざされた10年の殆どをを構成した、3派軍事勢力による分割支配体制が国連介入の時期まで続く。
この30年に渡る、激しい内戦期にカンボジア国土はその殆どを地雷原に変えられてしまっていた。


 国連介入時、自衛隊が参加したり文民警察が派遣されたり、多くのボランティア国連活動員が支援を行った。その中でボランティアに参加した青年が銃弾に倒れたのは真に残念だが、地道な活動によって国民選挙が復活するなど貢献の意義は大きかった。
カンボジア復興計画の要として地雷撤去が計画された。国連軍は各国工兵隊をその撤去に当たらせると同時にその技術をカンボジア国民に与えるべく訓練に当たった。CMACはカンボジア全土に敷設された敷設された地雷を撤去すると言う非常に危険な活動に当たっている。
私の何回かの渡航時には必ずと言っていいほど、このパッチをつけた一団が主要道路の脇、遺跡の中などで活動していた。当時はまだまだポルポト勢力が頻繁に活動していたので、妨害を受ける可能性もあっただろうに。
 退役自衛官の技術指導員も結構加盟して活動している。

Text By TAC  


Posted by USARV-TAG at 00:27Comments(0)パッチ&インシグニア